文明はフィクションか?
最近、ユヴァル・ノア・ハラリ(著)「サピエンス全史」との書籍が話題になっています。
最も注目すべき所は、人間の認知革命で「虚構のおかげで、私たちはたんに物事を想像するだけではなく、集団でそうできるようになった。」というところでしょうか。
私たちホモ・サピエンスは、原始時代の認知革命で、架空の事物について語ることができるようになりました。これが天国とか神とかを想像する力となり、集団で信じたり、価値観を共有できるようになっていったのです。これがネアンデルタール人との違いで、私たちホモサピエンスが生き残ることができた大きな理由です。
私たちが、日頃当然と思っている国家、民主主義、資本主義、貨幣経済などのシステムもフィクションで、みんなが信じるから成り立っているというのはその通りです。これらのフィクションの想像が文明の進歩と見なされていますが、果たしてそうなのでしょうか?
人間は、農業革命で狩猟生活から農作物の生産による安定した生活に移れるかと思いきや、それは人口爆発を起こし、支配層と支配される人たちという貧富の差を生み出しました。これは企業社会で働く現代のサラリーマンにも相通ずるものがあるような気がします。考えてみれば、集団で効率化され富を生み出す企業も、有期雇用などで企業の下層にいる人たちはわずかな報酬しか得ていません。
要するに文明の発達は、必ずしも全体を豊かにすることはなく、耐えず支配層と支配される側という構造を生みだし、一部の富める者と多くの貧しいものを生みだしてきたのです。
自動車やコンピュータを生みだし、先進国の人たちは便利な生活を享受しています。しかし、アフリカやアジアの多くの地域で、貧困にあえぐ人たちがいて、その状況は一向に改善されていません。私たちが住む先進国においても薬物汚染や自殺者の増加など、人間が(過去→現在→未来という時間軸で)徐々に幸福になっているとは言い難い状況です。
個人もフィクション?
仮に人間がフィクションを産み出しながら、発展してきとして、その人間自体もフィクションではないかという指摘もあります。
その人間の実態とは何でしょうか?
フィクションを産み出す妄想力、思考力、意識などは目に見えないもので、「心」の領域に属するものです。
「心」は自分のことを「私」として認識していますが、インドのアドヴァイタ・ベーダーンタという不二一元論の思想では、自分とは実態のないものだと説きます。
自分そのものがフィクションなのです。自分というものの実態を探っていくと、記憶や身体、感情などの集合体で、これといって自分というものを特定することは不可能に思えます。ただ、はっきりしているのは、自分というものは、[今、ここに」意識しているということだけです。
デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」は、自分以外の実態が本当なのかどうか確認できないという意味でアドヴァイタ・ベーダーンタと似ています。
自分というものを分析してみると、社会のルールやしつけ、個人の経験・記憶の中で自然と出来上がったり、こうありたいと思って作り上げたフィクションなのかもしれません。
フィクションの世界を上手く生きるには?
もしも社会も個人もフィクションだとしたら、私たちはどう生きればいいのでしょうか?
フィクションとしての人間文明は、コンピュータやロボットの進化と共にますます発展していくでしょうが、それと人間の幸福とは、全く別問題です。
新しいフィクションが構築され、人間はそれに適応しながら、幸福を追求するのでしょうが、その幸福を追求する実態である人間の存在意義や「自分とは何なのか」ということが分からなければ、いつも漂流する難破船のようなものです。過去の記憶や未来への不安から呼び起こされる恐怖や怒りなどに振り回され続けてしまいます。
自分とは、記憶や心の流れで、それを自分と思い込んでいるだけなのでしょうか?
それともそれらを観察する目撃者なのでしょうか?
それともその先にある「すべてを包含した一者」なのでしょうか?
なかなか、私のような凡人には分かりません。
参考まで、私が読んで良かった書物をピックアップしておきます。
Last Updated on 2020年5月18日 by Editor
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