画像ソース:Osho
NHK党の立花党首が、自身のYouTubeチャンネルで東一教会の話題を取り上げていた。その際に「宗教とは、非合理的であり、非科学的である」と述べていましたが、宗教を端的に表しているので、あらためて立花党首のクレバーさを感じた。
しかし、欧米ではキリスト教を信じる人が減少してきているものの、世界中で多くの人が宗教を信じている。そこで困るのが、政教分離ではなく政教一致を採用している国である。ただ、信教の自由を標榜するアメリカ合衆国においても、特に南部ではいまだに進化論ではなく、旧約聖書の天地創造の物語を信じている人が結構多い。
だから、地球温暖化について科学的には、産業革命以後、人間活動による二酸化炭素排出量が増えていることにり温室効果が起こっていることが明らかになっているが、進化論を否定する人たちは、気温上昇も神の行うことだと考えている。このように非合理の世界観を現代社会に持ち込むと、科学的な事実を信じて生きている人とは永久に議論がかみ合わないことになる。
最近、元首相殺害の関係で取り上げられている統一教会の件においても、合理性と非合理性の相いれなさを感じざるを得ない。一方は、文鮮明が築き上げた教義を信じ、「日本はアダム国家である韓国にお金を提供するエバ国家だ」として、日本国内でお金を集める方法を編み出し、韓国に送金してきた。そこに献金する人の生活への配慮などない。
統一教会の集金手段のひとつが霊感商法と言われてきたものだ。例えば、「この壺を買わないと先祖の霊が苦しみ続けて、それが現在の不幸のもとになっている」と言われると、藁をもすがりたい人は、やすやすとその話に乗っていしまう。もはやそこには合理性の話などなく、信者にとっては、先祖の霊は存在し、その子孫までに不幸をもたらすという教えが、非常に合理的な話として聞こえているのだ。
そもそも先祖の霊がからむ話は怪しい。先祖が2代前の祖父母の代ならば4人いて、3代前ならば16人いる、4代前ならば256人もいるのだ。もうそれ以上になると、どの先祖と現代に生きる自分が、どう関係があるのか訳が分からなくなってくる。今更、何代前の先祖の霊のことを言われても困るというのが合理的な人の考えだが、非合理的な人は、先祖といえば、家系図の先祖だけだと勘違いして、難題も遡れば非常に多くの先祖がいることを完全に無視してしまうだろう。
何しろ教団の言うことは正しく、世間一般に常識として定着している科学的な話は、ただ人間が作り出しただけの話と考える人たちと話がかみ合うはずもない。
ただ、宗教に限らず、この世の中で非合理の世界に住んでいる人は非常に多い。一部の自己啓発にはまる人もそうだ。Amazonで本を探していると「引き寄せの法則」といったキーワードがタイトルやサブタイトルに入った本をたくさん見つけることができる。
「引き寄せの法則」は、おおむね「信じることは、実現する」というもので、過去に大ヒットしたナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」(1937年)によって説かれているものとオーバーラップする。特にナポレオン・ヒルの「それが何であれ、心に描いたものは現実化できる」という考え方は、「信じること、強く思うこととは実現する」というのは、引き寄せの法則といtった非合理的な自己啓発と何ら変わらない。
しかし、この「非合理的」ことを「合理的」なものへとつなげていくのが、自己啓発であり、宗教なのだ。(だから、お金になるのだ)
例えば、前向きに行動することが「成功の鍵」であると自己啓発本で学んだとして、それを実行すれば、勤勉になり、人との付き合いがよくなり、結果的にビジネス的な成功への近道を歩むことになる。これらのことを突き詰めても要するに卵が先か、鶏が先かの話になってくる。
実際に比較宗教社会学者のマックス・ウェーバーは、その著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年-1905年)で、産業革命にいかに宗教的な倫理が影響したかを記している。
「ウェーバーは、西洋近代の資本主義を発展させた原動力は、主としてカルヴィニズムにおける宗教倫理から産み出された世俗内禁欲と生活合理化であるとした。」(via Wikipedia)
これは非合理的な宗教的から生み出された倫理が、同じキリスト教であってもカトリックよりも合理性を重んじたプロテスタントによって資本主義が推進されていったというものだ。
人間は、非合理性と合理性の重層的な世界に生きているし、人間の内面に自然と浮かびあ上がる感情は、非合理であっても、それを理性という合理性でコントロールしているので、社会というものが成り立ち、人々は次第に豊かになってきた。
しかし、忘れてはならないのは、宗教が非合理的なものを合理的なように見せかけて、金銭を信者からむしり取るというのが問題の根源だということだ。これは、ある意味宗教が持つ宿命かもしれないが、宗教が教団という組織としてのフレームに収まり、それらに付随する人(いわゆる生活の糧にする人)が増えてくると、本来の宗教が持つ非合理性は、(実体験によって得るものであるはずなのに)経典として活字として説かれ、広まっていくことになる。
そうなると、ある教団のように聖書に記されていることを、その表面的な意味でしか解釈しなくなったり、教団の教義を広めるために壺を売って、教団活動の資金源にしなくてはいけなくなる。それはもはや、非合理性の世界ではなく、金銭を搾取するための詐欺的手法という合理的手段へと変容する。
「見えないものを見えるように表現する」のは芸術であり、仏教(または非二元的教え)のように「無(または一者)を体感する」のが宗教だと筆者は思っている。そこに金銭が介在するとしたら、自らが生きるためのわずかなものだけだ。
M林檎
Last Updated on 2022年8月5日 by Editor
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