【モバイル林檎のパイナップル狂時代】P 6, 夜這いの伝説

津山三十人殺しとも呼ばれ、1938年(昭和13年)に起きた猟奇事件である津山事件は、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)で起こった。都井睦雄という若者が起こした凄惨な事件だった。

この背景には、村の複雑な男女関係と都井が、結核にかかったことが、二つの大きな背景となっている。

中国山地の山村である西加茂村には、娯楽が少なく、事件当時、夜這いと呼ばれる男女関係が残っていたらしい。都井も夜な夜な女性の寝間を訪れて、複数の女性と男女関係を持っていたらしい。しかし、都井が、当時は死の病であった結核にかかっていることが分かると、関係を持っていた女性が都井を避けるようになった。

仕事もできず、山村の心ない不評に都井睦雄は、心を痛め、次第に村民に像を抱くようになった。特に都井がショックだったのは、互いに恋心を頂いていると思った女性が、よそに村に嫁いだことだった。都井は、絶望感に包まれた。

1938年(昭和13年)5月20日午後5時ごろ、都井は電柱によじ登り村の送電線を切断して、停電状態にし、暗闇の中で犯行を行った。凶器は、斧、日本刀、猟銃だった。都井は、まず自分の母親を斧で殺し、村の家々を次々と襲った。

都井は、事件後、山の中で遺書を書き、猟銃自脱を遂げる。

都井の遺書には「今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした」と記している。

都井は、好きだった女性が、結核を煩った自分を捨てたことにより、絶望感を味わい、それが強烈な怨念となって、都井の精神を覆い尽くしてしまった。都井には、友達もなく、誰にも自分の苦しみを語ることができなかったのだ。その末路が、猟奇的な殺人だったのは、あまりにも悲劇過ぎる。

さて、都井も行ったらしい夜這いという習慣は、いつ頃まであったのだろうか。M林檎が、瀬戸内海の島で生まれた知人から聞いたところでは、1960年代の前半までくらいはあったようだ。すでに日本のほとんどの地域では、なくなっていたが、娯楽の少ない諸島地域では、最後まで残っていたようだ。

島での生活は、山村よりも閉鎖かも知れない。狭い島では、家が建てられる土地は限られているため、家は密集していて、濃厚な人間関係が存在する。生活の生業は、漁業やミカン栽培だった。昔の漁師の生活は、冷蔵輸送技術が発展していなかった魚の流通範囲は限られ、その日暮らしに近い生活だった。

しかし、島の中では、誰と誰が関係を持っていたとかの噂が流れるため、結婚後も男は、嫁の過去の男女関係に嫉妬したり、その男性に恨みを持ったりする。本当にドロドロしている。

だが、日本特有の同質性を求め風土や農村や漁村などに住む貧しい人たちにとっての楽しみは、酒を飲むこととセックスくらいしかなかった。実際に山村で生まれた年配の女性に話を聞いたことがあるが、山村の冬は寒く、雪がつもり、農作業ができない。それ故、冬の間は、親夫婦は安いウィスキーを飲んで暮らしていたということだった。娯楽と言えば、それくらしかなかったと言っていた。

さらにセックスは、抑圧された農漁村社会の水面下で、人々のストレスを発散する知恵だったのかも知れない。昔から、日本人は、性に対して開放的だった。西洋のキリスト教文化が入ってきてから、妙に窮屈になってきたような気がする。

何もかも、西洋の文化を取り入れると息苦しい物になっていく。今や世界基準とは、西洋基準のグローバルスタンダードだが、日本は、宗教倫理が幅をきかす国ではない。

「和を以て貴しと為す」の国なのだ。

Last Updated on 2021年2月27日 by M林檎

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