果たして時間は、すべての人に平等なのだろうか?
普通はそうだ。人にとって生まれて死ぬまで、富も美貌も平等ではないが、死が訪れることと時間だけは平等であると言われる。
果たしてそうだろうか?
物理学的には、時間は、拘束で異動するほど時間が経たなると言われている。移動する人と移動しない人では、時間の進み方が違うらしいが、地球上での移動ではその差など出ない。
時間に関しては、始まりがあるものは、必ず終わりがあるという考え方がある。これは古代から信じられてきた考え方で、この宇宙のすべてのものは、始まりがあるから、すべてに終わりがある。
もしも終わりがないものがあるとしたら、それは始まりのないものだから、ビッグバンで始まった宇宙を超越している。それは創造神とも呼ばれる。
だから、いくら偉大なキリストでもブッダにも死という終わりがあった。これは肉体をまとって生まれた以上当然の話だ。
だが、キリストにもブッダにも、私たち凡人と同じような時間が流れていたのだろうか。キリストは知らないが、おそらくブッダの中では、時間が止まっていた可能性がある。それは、ブッダの境地には、始まりも終わりもなかったからだ。
悟りとはそういうもので、始まりも終わりもない世界にとどまることらしい。
しかし、肉体は物理的時間の中におかれていて、次第に弱り、最後は朽ち果てる。
普通の人間にとって始まりも終わりもない世界に近いのが、何かに心底一生懸命になっている時だ。食事のことも忘れ、周りの音も聞こえないほど週通している時だ。
また、セックスで最高潮の時もそうだ。快楽に集中し、他のことは、意識できない。
このように集中していると時間の流れを感じない。それはとても幸福な時間だが、ブッダの境地とは、天と地の差がある。ある意味疑似境地と言えるかもしれない。それはドラッグ体験も同じだろう。
個人としての時間体験では、幼いときは時間が長く感じられ、緩やかに流れる。振り返ると幼いときは濃密な時間を過ごしていたように思う。それが年齢を重ねるに連れて、時間の経過が早く感じるようになる。それだけ、体験の濃厚さがなくなっている証拠だ。
私たちは、いつものようにテレビを観たり、いつものように仕事をしたり、いつものようにご飯を食べる、繰り返しのような時間に委ねている。実際は繰り返しではなくて、新たな体験なのだが、脳機能の省力化によって、自動化してしまいやすい。
この自動化を防ぐことこそが、個人の時間を拡張する方法なのだ。要するに日々新しいものを求めず、新しものを感じようとせず、自動化している人間の時間は短く、その反対の人間の時間は長く有意義に感じる。
では、どうすればよいのか?
それは日々、心を落ち着けて、一つ一つの出来事を静かに見つめることだ。目の前の置物もよく見れば、毎日違う表情を見せるし、いつも食べているおにぎりもかみしめれば、異なる味わいがある。
いつも、今を感じ、今を見つめ、今に気づいていれば、時間は濃密になり、いずれ永遠の中に溶け込んでいく。
時間が濃密になればなるほど、心は穏やかになり、より充実した時間を過ごすことができる。だから、人生はなすべきことの多さで決まるのではなく、いつも新鮮な気持ちでいることにかっかっている。
それは思考とか、意識という次元の話しではなく、もっと根底にある気づきと言ったレベルの話しだ。
美しい花があっても、それをありのままに観ることがければ、ただの造花を観ていても同じである。
それは生命の息吹を感じ、生命の繋がり、生命の網の目、生命の粒子で満たされる宇宙をただありのままに感じることだ。
Last Updated on 2020年5月18日 by Editor
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