【独裁者】ポル・ポト、毛沢東の狂気


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1976年5月、カンボジア共産党(クメール・ルージュ)の指導者ポル・ポトは、民主カンボジアの首相に就任しました。インテリをプノンペンから農村部へ移動させ、農業に基づく原始共産主義で統治しようとしました。貨幣を廃止し、家族さえも解体しました。

農業生産を重視しましたが、機械は一切使用せず、原始的な方法で農業を行いました。
ポル・ポトは、ゲリラとして戦っていた頃、山間部の貧しい農民と暮らした経験から、原始的な農業を基づく政治を重視しました。

ポル・ポトは、他の独裁者とは異なり、自らの姿を隠し、秘密主義を貫きました。ポル・ポトと一般国民の間にオンカーと呼ばれる人たちを階層上に配置し、オンカーを通じて命令を伝達しました。

オンカーは、自分に命令する人と自分が命令する人しか知らず、命令の本当の目的も知らされませんでした。ポル・ポトは、このような仕組みを作り秘密主義を貫くことによって、国民の目から真実を隠そうとしたのです。

結果的にポル・ポトの極端過ぎる農業政策は失敗しました。機械や肥料を使わない農業は、農村部に移住した国民に十分な食料を提供することができませんでした。

この政策の失敗は、国民の責任とされ、ポル・ポトを恐怖の独裁者へと駆り立ていきます。独裁国家に付きものの密告と粛正が行われ。100万人以上の国民が殺害されました。

ポル・ポトもソビエトのスターリンのようにノルマによる殺害を命じたのです。

人間は社会的な動物だと言われますが、ポル・ポトは、人と人との絆を徹底的に破壊するために家族を解体し、子どもは国家により養われました。こうなると国家ではなく、狂気の独裁者に支配された狂気の世界以外何者でもありません。

では、なぜ、ポル・ポトは、原始共産主義という妄想に囚われたのでしょうか。
ポル・ポトは、あの恐ろしい文化大革命が始まる前の中国を訪問していることから、その影響を受けたとも言われています。

さらにポル・ポトは、政権を取る前にカンボジアの国境に近いジャングルで闘争活動をしており、その際に辺境の地で農業のみで暮らす人たちに共感を覚えたとも言われています。
彼も人生のどこかの時点で、狂気に囚われてしまったようです。

あの有名な中国の独裁者、毛沢東も自分の権力のためならば、殺人を厭わない人物でした。
中国共産党の創始者で、中国では日中戦争を戦った英雄ですが、やはり権力という魔物に取り憑かれ、道を誤ってしまった人物です。

毛沢東が残虐なのは、蒋介石率いる国民党との内戦の際に容赦なく貧しい一般人まで殺害したことです。さらに国民党を破ってからは、思想統制を徹底し、知識人や豊かだった者を容赦なく殺害しました。

さらに人民公社を設立し、私有を禁じました。極端な農業政策の失敗により、最大5000万人の餓死者を出しても平気な異常な精神を持った独裁者でした。

経済政策の失敗により、英雄だった毛沢東も権力失っていきます。しかし、毛沢東は悪名高き文化大革命という思想運動で復権を目指します。文化大革命は、表向き資本主義を取り入れて中国を発展指せようというグループを批判する運動でしたが、実質的には毛沢東の復権運動でした。

文化大革命は1066年から1967年まで続きました。諸説ありますが、毛沢東が指揮する高校生を中心とした紅衛兵が1000万人以上を粛正したと言われています。高校生まで動員して、自分の復権を目指したのです。

紅衛兵は、毛沢東が復権すると、お払い箱にされてしまいます。
毛沢東は、スターリンの粛正と同じように反体制分子と思われる人間を片っ端から殺害しました。

毛沢東の死により、幸いなことに中国の大量殺戮の時代は終わりを告げました。

M林檎

Last Updated on 2022年8月3日 by Editor

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