【コラム】独裁者の末路

独裁者の末路は、大抵が悲惨なものです。
独裁者は、自らの権力を脅かす者を平気で殺害してきたことから、多くの人から恨みを買います。
ですから、独裁者は、暗殺やクーデーターの脅威から身を守るために側近を含めて幹部をいつも監視しています。

独裁政権は、権力闘争により内部から崩壊するよりも、不満に持った国民の反乱や外部からの圧力で崩壊する場合が多いようです。
特に王政の崩壊は、国民蜂起かそれを背景にした軍事クーデーターが多くなります。二十世紀においては、ロシアのロマノフ王朝から始まり、イランのパーレビ王政の崩壊など、多くの王朝が崩壊しています。

意外に暗殺による政権崩壊は少ないのです。
ヒトラーは、ベルリンの地下壕で愛人のエバ・ブラウンと自殺しましたが、殴り殺しに合わず自殺できただけでも、独裁者の最期としてはまだ良い方です。

ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク共産党書記長は、妻と共にルーマニアで独裁体制を敷いていましたが、市民の蜂起により1989年十12月25日に銃殺されました。
ヒトラーに匹敵するような独裁者で、最後まで生き伸びたのは、ソビエト連邦の最高指導者スターリンです。彼は徹底的に政敵を粛正することにより生き延びました。

スターリンは、独裁者によくみられるパラノイア(偏執病}的な気質を持っていました。猜疑心が強く、いつも誰かに殺されるのではないかとの妄想を抱き、高齢になると、ますます疑い深くなっていきました。
彼は、人を殺害することに痛みを感じ手いませんでした。独ソ戦争では、自国の兵士が退却しないように前線の部隊の背後には、退却する兵士を殺害する部隊を配置し、実際に退却する兵士を殺害していました。

また、スターリンはレーニンの恐怖政治を受け継ぎ、さらに強化しました。秘密警察は国民に密告を奨励し、密告しない者は逆に反逆者と見なされ粛正されるほか、強制収容所送りにされました。
強制収容所送りにされた自国民は900万人以上で、強制収容所に送られると過酷な強制労働と貧しい食事、極寒の冬に耐えきれず一年以内に半数が命を落としたと言われています。
最終的にスターリンは自国民2000万人以上を殺害したのですから、ヒトラーに負けない独裁者中の独裁者です。

ヒトラーとスターリンは、互いを敵対視しながらも互いの実力を評価していたと言います。ヒトラーとスターリンに共通するのは、手段を選ばない冷酷さと強い意志です。
また、ヒトラーは、人並みはずれた知性を持っていたと言われます。

スターリンも無類の読書好きで、読んだ本の共感する部分にはアンダーラインを引き、自らの感想を書きながら熟読していました。
しかし、彼らには異なる部分もあります。ヒトラーは、ユダヤ人を殺害しましたが、自軍の兵士を大量虐殺しませんでした。

スターリンは、1930年代後半、殺害を楽しんでいたかごとく、大量の自国民を殺害しました。
地方の党支部に殺害者の目標数と強制収容所送りの人数を割り当てました。もはやスターリンと秘密警察は、本当の敵対者を殺すのではなく、国民を恐怖に陥れるために機械的に粛正していたのです。

このソビエトの大量虐殺には、ヒトラーでさえ呆れ帰ったと言います。ヒトラーにとっては、スターリンが何のために粛正するのかまったく理由が分からなかったのです。

幸運なことに独裁者スターリンは1953年、天寿を全うしました。死因は脳卒中で、毎晩繰り返されていた徹夜のパーティの後、自室で死んでいるのが発見されました。
独裁者にしては、幸運な死に様でしたが、それまでソビエトの国民が支払った代償はあまりにも大きいものでした。

Last Updated on 2023年8月22日 by Editor

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