杉尾秀哉議員、オウム真理教事件での失敗を棚に上げ、高市首相を追及する姿勢にネット民が怒る!

国会という言論の府において、議員が行う質問は行政府を監視し、国民の代弁者として真実を明らかにするための最も強力な武器である。そこには厳謹な事実確認と、裏付けとなる客観的な証拠が求められるのは言うまでもない。
しかし、立憲民主党の杉尾秀哉参議院議員による国会質問のあり方を巡り、厳しい批判の目が向けられている。週刊誌の報道やネット上の疑惑をそのまま国会の場に持ち込み、自らによる十分な事実検証を行わないまま政府への追及を重ねる姿勢が、同氏のメディア人間としての過去、すなわち「オウム真理教事件(松本サリン事件)」における報道被害の歴史と重ね合わされ、その痛恨の失敗を再び抉り出す結果となっているからだ。

近年、杉尾議員は国会審議において、週刊誌のスクープやSNS上で飛び交う疑惑をベースにした質問を頻繁に行っている。直近でも、閣僚や総理周辺の不祥事疑惑、さらには選挙にまつわるネット上の情報工作疑惑などについて、週刊誌の記事やネット動画の主張を引用しながら政府の責任を厳しく追及する場面が見られた。
一見すると、鋭い追及によって権力の不正を暴こうとする熱心な姿勢に映るかもしれない。しかし、その質問内容を精査すると、提示されている「証拠」の多くは週刊誌が報じた内容の域を出ておらず、議員本人や党独自の調査によって確定された客観的事実が不足しているケースが目立つ。
週刊誌の報道は、時に社会的な不正を告発する重要な端緒となる。しかし、それはあくまで「疑惑」の提起であり、そのまま確定した事実として扱うには慎重な検証が必要だ。国会議員という公人が、国会質問という公的な影響力が極めて大きい場で発言する以上、引用する情報の正確性を自ら検証する義務がある。
それを怠り、週刊誌のストーリーに身を委ねて答弁者に「白か黒か」を迫る手法は、単なる印象操作やレッテル貼りに終始しかねない危うさを孕んでいる。
この「自ら検証をせず、流れてきた情報を前提に相手を追及する」という姿勢が、なぜこれほどまでに問題視され、世間の反発を招くのか。それは、杉尾議員が政界に転身する前、TBSの報道記者および解説委員として、日本中を震撼させたオウム真理教事件、とりわけ1994年の松本サリン事件の報道に関わっていたという経歴に起因する。
松本サリン事件が発生した際、警察の捜査方針やメディアの報道は、第一通報者であった無実の男性を犯人視する方向へと一斉に傾いた。当時、TBSの報道現場にいた杉尾氏もまた、この「疑惑の人物」を犯人前提として扱う報道の潮流の中にいた。
のちにオウム真理教による組織的テロであることが判明し、メディアによる凄惨な冤罪報道・人権侵害であったことが証明されたが、この事件は日本の報道史における最大の汚点の一つとして今なお語り継がれている。情報の信憑性を多角的に検証することなく、警察のリークや周囲の空気に流されて一人の人間を社会的に抹殺しかねない報道を行ったメディアの責任は極めて重い。
杉尾議員自身、過去にこの報道被害について反省や検証の弁を口にしてきた経緯がある。だからこそ、同氏が国会議員となった現在、週刊誌の未確認情報を元に確実な証拠もないまま政府や特定の個人を「犯人」であるかのように追及する姿を見た人々は、強い既視感と失望を覚えるのである。
メディア時代に「事実に根ざさない報道」の恐ろしさを身をもって知ったはずの人物が、政治の場において再び「事実に根ざさない追及」を行っているのではないか、という疑念だ。
メディアによる疑惑報道を国会に持ち込むこと自体が全面的に悪というわけではない。
問題は、その情報を扱う際のガバナンスとリテラシーの欠如にある。週刊誌が報じたから、ネットで話題になっているからという理由だけで、裏付け調査もなしに質問の壇上に立たせることは、国会という最高権力機関の権威を自らおとしめる行為に等しい。
もしその週刊誌報道がのちに誤報であると判明した場合、国会の場でなされた名誉毀損や不当な追及の責任は誰が取るのだろうか。答弁を求められる側に過度な立証責任を押し付け、「疑惑がないと言うなら、ないことを証明しろ」という悪魔の証明を迫るような質問姿勢は、近代法治国家の原則である「疑わしきは被告人の利益に」あるいは「立証責任は追及する側にある」という基本精神を著しく逸脱している。
このような検証なき追及姿勢は、結果として政治不信を助長し、野党第一党に対する国民の信頼を損ねる原因にもなっている。政策論争や建設的な代替案の提示ではなく、週刊誌のゴシップをなぞるようなスキャンダル追及に終始する国会は、国民が望む「建設的な議論の場」からはほど遠い。
杉尾秀哉議員が真に過去のオウム事件における報道の失敗を教訓としているのであれば、今求められているのは、誰よりも情報の正確性に臆病になり、誰よりも徹底した事実検証を行う姿勢であるはずだ。流れてくる疑惑の波に乗り、一時のメディア受けや政権批判の道具として未確認の情報を消費するような手法は、かつて自らが加担したメディアの暴走と同じ轍を踏むことに繋がりかねない。
自らの過去の教訓をえぐられるような批判に真摯に向き合い、国会議員としての発言の重みと、事実に対する厳格な誠実さを取り戻すことが、今まさに問われている。





