【ライフスタイル】「宗教」は人を幸福にするためにあるのではない!

世界的な宗教といえば、キリスト教、イスラム教、仏教が有名だ。キリスト教とイスラム教は一神教で、勇逸絶対の神に帰依することが信者の務めだ。一方、仏教はそれらの宗教に比べて、特異で神々は入るにはいるが、人間に近い存在で、如来様とか菩薩様を拝んでいる。でも、これらは、教祖のお釈迦様より、あとになって生まれたもので、仏教の世界は複雑怪奇だ。

ただ一つ、単純なのは「悟り」を目指し、輪廻転生の輪から脱することだが、日本仏教は、お釈迦様が達した悟りの境地を目指さすのではなく、民衆が幸福になる(成仏できる)ための宗教という側面が強くなっている。

宗教とはもともと、そういうものではなく人間が不安定な世界の中で唯一絶対のものを追求した結果、不安定さを説明するために人間の概念の中に生まれたのだろう。あえて人間の概念というのは、唯一絶対神だったとしても、それぞれの思考の中に微妙な差かもしれないが独自の解釈による神が存在しているからだ。だが、大筋では信者の合意がある。

したがって、神には祈りをささげるが、その祈りはあくまでも神と向き合い、自分がいかに神の教えに背いてきたかという、ある意味懺悔と改心、それに感謝がメインとなる。自分の家族の病気の平癒を祈ることではない。それよりも、今日という日がやってきて、食事をできて、無事に生きられたことを感謝して、神の存在を祈りによって感じるのだ。

神は、昔から豊満な人間を罰する存在であり、時には大災害をもたらす存在であった。それが科学的に地球環境(火山、地震、高潮、台風)などによるものだとわかったが、それにも関わらず、世界の多くの人は宗教を信じ、救済を願っている。

だから神は、昔から人格を持った人間のように語られる。心の中で疑似的に神と対話できるのだ。しかし、仏教は神や仏などと対話を行わない。そこには、唯一絶対というものは、宇宙の始まりの引き金を引いた一者には、始まりもなく、終わりもないという定義しかない。いわゆる永遠の存在であり、無限の存在である。

実は引き金を引かず、ビッグバンも存在していないかもしれない。仏教の信者は、想像する物では無く想像をしている自分に気が付いているだけの存在である。瞑想、祈祷、修行によって、それ自身であろうとする。

いわゆる無の境地さえ、想像の世界の話であり「無」さえない。それらは人間が言葉によって定義した狭い意味しか持ちえない。であるため、仏教は正確には、教義を持ち、始祖を持つ宗教とは言えない。
誰も神の啓示は受けないし、神からの指示を受けることもない。

仮に啓示を受けたとしても、それは心が作り出した夢のようなものとしか受け取らない。たとえ、その啓示により、命を救われたとしても、それはたまたまこの宇宙がもたらした不思議な現象にしか過ぎない。

元に戻るようだが、宗教とは、なんだろうか?

「人が人として生きるための教え(教義)、組織等の総称」なのだろうか?

私には、よくわからないが、昨今の新興宗教を含めた宗教活動は、一般の人間が行う限り、人間世界の喜怒哀楽が入り混じった関係作りや生活の手段にしか見えない。

今日の社会では、神はお金になり、生活の糧になるのだ。
かつても、現在でも、世界に目を向ければ殺し合いの原因となっているのだから、日本の神はまだ平和的なのだろうか。

Last Updated on 2022年7月19日 by Editor

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