君が苦しいのは、君のせいじゃない」共産党の山添拓議員の「他責の論理」は救いか、それとも責任転嫁か?

(via 東スポ)

清須市の図書館問題から見える「責任」のあり方

清須市では現在、新しい市役所の周辺に図書館を新設・統合する計画が進んでいますが、「身近な図書館をなくさないでほしい」という住民からの反対意見が出ています。図書館というのは、単に本を借りる場所ではありません。地域のお年寄りが日課として立ち寄り、子どもたちが放課後に宿題をし、求職中の人が情報を集める——そういった「地域の居場所」としての機能を長年担ってきた存在です。それが統廃合によって遠くなる、あるいはなくなるとなれば、住民が反発するのは当然のことだと言えるでしょう。

注目すべきは、現在の清須市長・永田純夫氏が、直近の2025年の選挙で日本共産党を含む幅広い勢力から支援を受けていたという点です。保守系の首長でありながら、共産党からも推薦を受けるというのは、一見すると不思議な構図に見えます。しかし地方政治においては、イデオロギーよりも「この候補者なら地域のことを考えてくれる」という実績や人柄が優先されるケースも少なくありません。そうした背景から、党を超えた支持が生まれることもあるのです。

ところが、その市長が推し進める図書館統合計画に対して、住民から反対の声が上がっています。通常、山添氏のような共産党議員は保守系の首長に対して「市民の声を聞いていない」と厳しく責任を追及するのが定番スタイルです。しかし今回は「自分たちが推薦した市長」が、住民から反対の声が上がっている計画を進めているという、少し複雑な状況です。このとき、彼らの論理はどうなるのでしょうか。ここに、山添氏の政治スタイルを読み解く鍵があります。

「人のせい」に見える、その論理の構造

仕事で例えてみましょう。自分が強く推薦して採用した部下が、大きなミスをしてしまったとします。そのとき、あなたならどうしますか。「自分の見る目がなかった」と自己反省する人もいれば、「本人の努力が足りなかった」「周囲のサポートが不十分だった」と外に原因を求める人もいるでしょう。批判側から見れば、後者は「人のせいにしている」と映ります。

山添氏の政治スタイルは、この後者に近いと言われることがあります。自分たちが推薦した市長が関わるデリケートな問題であっても、その矛先を「市長個人の判断ミス」に向けるのではなく、「そういう判断をせざるを得ない構造的な問題」へと巧みにずらしていくのです。これが、批判側から「何でも人のせいにする」と言われる理由のひとつです。

ただし、ここで少し立ち止まって考えてみてください。「人のせいにしている」という批判は、本当に正しいのでしょうか。たとえば、ブラック企業で働く若者が過労で倒れたとき、「本人の体力不足」と言うのは正しいでしょうか。多くの人は「それは会社の仕組みがおかしい」と感じるはずです。責任を個人ではなく構造に求めることが、必ずしも「逃げ」とは言えないケースも、世の中にはたくさん存在します。

「構造」を攻めることで責任をかわす技術

山添氏や共産党の大きな特徴は、個別のトラブルを常に「社会構造」や「制度」の問題に置き換える点にあります。清須市の図書館問題でも、「市長個人の資質や判断が悪い」という方向には進まず、「国が進める公共施設の統廃合という政策の枠組みそのものが問題だ」という主張を展開します。

これは非常に巧妙な論理構成です。自分たちが推薦した市長を守りながらも、住民の不満にも寄り添い、そしてその怒りの矛先を「制度を作った国(=自公政権)」へと向けることができるからです。批判する相手は常に「上の権力」であり、自分たちは常に「市民の味方」という立場を崩しません。

山添氏は弁護士出身であり、「誰に法的・道義的責任があるか」を精密に分解するのが非常に得意です。法廷での弁護士の仕事というのは、依頼人の責任をできるだけ軽くし、問題の原因を外部の要因や制度の不備に求めることでもあります。その訓練が、政治家としての山添氏のスタイルにもそのまま生きていると言えるでしょう。

会社で「このミスは誰のせいだ?」と詰め寄られたら、多くの若者は委縮してしまうかもしれません。しかし山添氏は逆に、「このミスが起きたのは、会社が適切なマニュアルを整備していなかったからだ」「そもそもこういう無理な業務体制を作った経営判断に問題がある」と、責任を外へ外へと押し出していきます。これは「責任逃れ」なのか、それとも「問題の本質を見抜く力」なのか——評価は人によって大きく分かれるところです。

それでも支持される理由——「他責の論理」が救いになるとき

「何でも人のせいにしている」と批判されながらも、山添氏が若い世代を中心に一定の支持を集めているのはなぜでしょうか。それは、社会には確かに「個人の努力ではどうしようもない、政治や仕組みの欠陥」が存在するからです。

奨学金の問題を考えてみましょう。日本の奨学金制度は、その多くが「貸与型」であり、卒業後に数百万円の借金を抱えてスタートする若者が大勢います。「それは自己投資なんだから自己責任だ」という意見もありますが、山添氏は「君が経済的に苦しいのは、あなたの努力不足ではなく、国が高等教育に十分な予算を投じてこなかったせいだ」と言います。この言葉は、借金に苦しむ若者にとって、どれほど救いになるでしょうか。

図書館の問題も同じです。「図書館が遠くなって不便になるのは、地方の財政を切り詰め、公共サービスを削り続けてきた国の予算配分の問題だ」という主張は、困っている住民にとって「そうだ、私たちは悪くない」という安心感を与えます。

現代の日本社会では、就職、賃金、住居、将来の年金——あらゆる場面で「自己責任」という言葉が若者に向けられます。うまくいかないことがあると、すぐに「努力が足りない」「選択を間違えた」と個人に帰責される空気があります。そんな中で、「それはあなたのせいじゃない、仕組みが悪いんだ」と言ってくれる政治家の存在は、一種の精神的な救いとして機能します。これが、山添氏の「他責の論理」が若者に響く根本的な理由です。

「責任逃れ」か「本質を突く分析」か——あなたはどう見る?

山添拓議員が「人のせいにする」と言われるのは、彼が徹底して「責任の所在を個人ではなく、常に権力や制度に求める」という政治スタンスを貫いているからです。清須市の図書館問題のように、自分たちが推薦した市長が関わるデリケートな場面でも、その矛先をうまく「構造的な不備」へと向ける技術は、弁護士としての訓練に裏打ちされた、非常に洗練されたものです。

それが「責任逃れの詭弁」に見えるのか、「問題の本質を突く鋭い分析」に見えるのか。答えは一つではありません。社会のルールに翻弄され始める世代にとって、彼の言葉は「無責任な他責」なのか、それとも「心強い代弁」なのか。ぜひ山添氏の国会質問の動画や、清須市に関する議会での発言などを自分の目で確かめ、自分なりの答えを見つけてみてください。政治を「誰かが決めること」ではなく「自分たちが考えること」として捉え直すきっかけになれば、それが一番です。

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