【東京スタンドアロン】メインストリートの残存
カフェのドアを開けると、朝の光が少し眩しかった。
外の世界は変わらず動き続けている。通勤する人々の足音、遠くで響くクラクション、すれ違う誰かの短い会話。そのすべてが、自分が一杯のコーヒーと小さな会話に夢中になっていたあいだにも、変わらず回っていたという事実を突きつけてくる。
足元を確かめるように一歩踏み出す。まだ少し肌寒さの残る空気が、頬をかすめる。春の訪れが近いとはいえ、東京の朝は冷たい。ビルの陰に入るとさらにひんやりして、さっきまでいたカフェのぬくもりが恋しくなる。だが、それでも不思議と足取りは軽かった。
頭の中には、さっき耳にしたふたりの男の会話が繰り返し響いていた。
「人は数字じゃ動かない。熱だよ、熱」
見知らぬ誰かの言葉なのに、まるで自分の胸の奥を言い当てられたようだった。誰かと向き合うこと、働くこと、何かをつくること——全部、理屈だけじゃない。自分の熱量を信じられるかどうか、たぶんそれがすべてだ。
小さな十字路で信号を待ちながら、ふと空を見上げる。ビルの間からのぞく青空は、まだ完全には晴れていない。薄く雲がかかっているが、その奥に確かな明るさがある。今日はなんだか、いい日になりそうだと思った。
それは、仕事で大きな成果が出るとか、誰かに褒められるとか、そういうことじゃない。ただ、自分が自分のままでいられる気がした。それだけでも、十分に価値のある一日だ。
大通りに出ると、流れは一気に速くなる。急ぎ足の人たち、鳴り続ける信号の音、頭上をすり抜けていくバスとタクシー。すべてが目的地に向かって動いている。だが、不思議とその流れに飲み込まれる感じはしなかった。自分もまたその中に身を置きながら、どこか一歩だけ距離を置いているような感覚。
カフェを出たときから、体の中心にじんわりと灯っている熱が、胸の奥で消えずにいる。それは、話をしていたあのふたりの声の余韻かもしれないし、カフェの温度かもしれない。あるいは、自分自身の中に確かにあったはずの何かに、久しぶりに触れたことの証かもしれない。
しばらく歩くと、交差点の向こうに駅の入り口が見えてきた。人が吸い込まれるように階段を下りていく。自分もそこに混ざっていくのだと思うと、ほんのわずかだがためらいがよぎる。このまま、どこか遠くへ歩いて行ってしまいたい気さえした。
だけど、足は自然に駅へと向かっていた。毎日同じルート、同じ時間帯、同じ混雑。それでも今日は、少しだけ違って見える。地下鉄の階段を下りる前に、ひと呼吸。肩の力を抜き、空を見上げる。雲が少しだけ薄くなっている。
この街では、誰もが何かと戦っている。仕事、生活、人間関係、自分自身。そんな中で、たった一杯のコーヒーと、他人の会話の断片が、自分を立て直すきっかけになる。そんな朝もあるのだ。
あのカフェは、きっと誰かの心にとっての「避難所」なのだろう。そして今の自分もまた、あの場所に少し救われた気がしている。
最後に駅の階段を一歩踏み出す。携帯の通知が振動し、今日の現実が再び始まる。けれど、どこか落ち着いた心で受け止められそうだ。
胸の奥に、まだあたたかい灯が残っているからだ。
Last Updated on 2025年6月29日 by Editor